「台風」というのは日本人なら誰もが知っている身近な存在。日本に台風が接近してくれば、マスコミのニュースは台風に関する情報で埋まり、職場や学校・家庭でも台風が話題の中心になります。しかしそれほど注目を集める台風も、過ぎてしまえば台風一過。日常の生活が進んでいく中で、台風の記憶は徐々に風化していきます。
しかし、そうは言っても、多くの人には「これだけは忘れられない」台風というのがあるのではないでしょうか。例えば多くの地域には、過去に大きな災害を引き起こしたために、その地域の誰でも知っているような台風があります。このような台風に関する記憶は、集合的に共有されて長期間にわたって受け継がれていきます。一方で、個人の人生に大きな影響を与えた台風もあるでしょう。出産の日に襲った台風、大事な旅行を台無しにした台風、故郷を襲った台風など、個人の記憶に残る台風は人によって様々かもしれません。
このように多様な、そして生き生きとした記憶を発掘・収集・共有することは、災害に関する学びにつながっていく重要なものだと考えています。そこで、台風に関する個人の記憶(メモリー)を発掘・収集・共有するためのシステムとして、台風メモリーズ(Typhoon Memories)プロジェクトを立ち上げることにしました。
台風メモリーズのシステムは、大きく分けると「リアル空間」と「情報空間」から構成されます。
「リアル空間」では台風メモリーズへの参加者が過去の台風を体感するための「データ体感空間」を用意します。この空間は以下の4つの部分から構成されています。
このシステムは、視覚情報と聴覚情報とを同時に見せるということではテレビに似ているところもなくはありませんが、データの可視化や可聴化、さらにはインタラクティブ性によって、テレビよりも豊かな視聴覚体験を提供できると考えています。
データ体感空間で台風の記憶をよみがえらせた参加者は、体験した台風に関する自分の記憶をウェブサイトに書き込み、他者に対して伝えることができます。その台風のとき、どこにいたか、何を覚えているか、など、伝えたい範囲で自由に書き込めるようにします。このような台風に関する個人的記憶を集積してアーカイブしていきます。
個人ごとの記憶には全く同じものはありませんが、それをたくさん集めてみると、どこか共通する部分があるかもしれません。特に興味深いのは、地域ごとに記憶がどのように違うかという点です。台風の被害はある限定された地域において特に顕著となる場合があります。その場合は、その地域だけにおいて台風に関する集合的記憶が残っているかもしれません。そうした記憶は、実は他の地域にも役立つという可能性もあります。
ではそうした地域の記憶はどのように集められるのでしょうか。一つの方法は、このデータ体感空間を各地に巡回させるという方法です。各地域ごとに積み重ねられた記憶を集めることによって、多くの人の思いが詰まった豊かな情報空間を作り上げていくことができます。さらに、この情報空間をデータ体感空間と重ね合わせてみれば、科学データの無味乾燥な数字の羅列だけではない、個人的記憶や集合的記憶の積み重なった存在として、過去の台風がより実感を伴ったものとして見えてくるかもしれません。
このように、リアル空間と情報空間とを記憶が循環することによって、情報空間の成長がリアル空間の充実につながるようなシステム、これが「台風メモリーズ」の構想です。
「台風メモリーズ」は2009年に始動します。この年は、日本の台風災害史においては、実は節目の年でもあります。というのも、ちょうど50年前の1959年に来襲した台風195915号、後に「伊勢湾台風」と命名された台風が、日本の台風災害史における一大転機となったからです。
第二次大戦で国土が荒廃した日本は、戦後の経済発展によって復興が進んでいたにもかかわらず、防災基盤の整備にまでは手が回らなかったため、大きな台風が上陸するたびに1000人単位の死者を記録していました(参照)。そんな中で1959年に紀伊半島に上陸した伊勢湾台風は、その強大な勢力と最悪のコースによって伊勢湾沿岸を中心に史上最大級の高潮を発生させ、5,000人を越す死者・行方不明者という、記録が残る中では台風災害史上最大の被害を引き起こしました。
相次ぐ大規模災害に危機感を強めた政府は、体系的な防災体制の構築が必要として、日本の防災対策の基本を定めた「災害対策基本法」を昭和36年(1961年)に制定し、全国の防災基盤の強化に踏み出すことになります。今日まで営々と続く現代の防災対策の原点は、まさに伊勢湾台風にあったのです。その後、阪神・淡路大震災による防災対策の見直しを経て、今はまさにこの50年間の歩みを検証するいい機会と言えるでしょう。
一方で災害から50年を経て、災害の記憶の風化も進んでいます。当時20歳だった人も今では70歳。記憶を後世に伝えるにはそろそろ限界が近付いています。こうした過去の災害に関する記憶を集めるということには、50年間の貴重な体験を受け継いでいくという意義もあります。
「台風メモリーズ」はデジタル台風プロジェクトの一部に位置付けられるものです。「デジタル台風」は台風に関する科学的データを網羅的に収集した科学データベースであり、過去約30年分の気象衛星画像やアメダスデータなどを自在に検索できます。これらのデータを「台風メモリーズ」のリアル空間に投影することで、台風の記憶を科学的データから想起するための環境を構成します。
その一方で「台風メモリーズ」は台風前線などの参加型台風情報プロジェクト(ソーシャル台風)の特徴も受け継いでいます。台風に関する個人的な情報を自発的な参加者から収集し、それをウェブサイトで社会的に共有するという方法論の面では、「台風メモリーズ」は一連の参加型情報システムの試みの一つとして位置付けられるものです。
「台風メモリーズ」と「台風前線」を比べると、後者は現在発生中の台風に関する新鮮な情報を収集するのに対して、前者は過去の台風に関する記憶を収集するという点で異なります。また「台風メモリーズ」はリアル空間に飛び出しており、この点でもウェブ上で完結する他のシステムとは違っています。ただし、両者には共通点もあります。それはメディアアート的な発想です。データを1)美しく、2)新しい視点から表現する、3)作品を制作する、という方針に基づき、研究(技術)とアートの境界を探究しています。